◎ 府城の紹介 : 府城の昔と今

台南の古地図台南市は台湾の発祥の地で、台湾で歴史が最も長い都市です。西暦 1661 年、鄭成功はオランダ人を駆逐し、台湾を取り戻した後、台南で府を開き統治を始め、開墾を行い、心を奮い立たせ、よりよい国政に務めました。当時中国本土の住民が台湾に大勢移住してきて、商船が多く集まり、市内では商店が軒を並べ、台南の都会の規模が確立されました。しかし鄭成功は若くして死去し、子の鄭経が継ぎ、聖廟を設け、学校を創設し、真剣に経営し、民生を向上させました。

1683 年になると、清国が台湾を平定し、台南に台湾府を設け、台湾の首府としました。 1885 年には、台湾に省ができ、台湾府は台南府と改められ、これが台南の名の由来になりました。 19 世紀末まで、台南は台湾の政治、経済、文化の中心で、その歴史の根源のため、台南市には旧跡名勝が特に多く、文化古都と呼ばれ、台湾中に有名なのは、このことに由来しています。

日本植民地時代には、中山路(昔は大正町と呼ばれていました)及び府前路の道路の両側に鳳凰木が植えられ、普段は並木道として、 7 月には鳳凰木の花が真っ赤に染まり、南国の味わいがあります。 鳳凰木は市内で最も普遍的に植えられている街路樹で、当市はそのために鳳凰の町と呼ばれています。

オランダ時代 1624-1662

プロビンシア城(赤かん楼)模型図ゼーランジャ城(安平古堡)模型図オランダ人が台南を占領し、ゼーランジャ城(安平古堡)を建て、プロビンシア街(民権路)の最初の計画的に造られたヨーロッパ式の通りが開かれ、後に台南市街地の中心となり、プロビンシア城(赤かん楼)が建てられました。


明鄭時代 1662-1683

孔子廟鄭成功はProvintia城を取り戻して東都を承天府(行政府)として治め、またZeelandia城を修復して安平鎮としました。鄭成功の死後、嫡子の鄭経が即位し、陳永華を指導者に任じて、彼の計画のもと台湾で初めての孔子廟を建設、また学校を設立するなどして、文化が芽生えるきっかけをつくりました。水利に力を入れ、農業と養蚕を教え、原住民を平定するなど、様々な施政を行い、台湾を次第に漢民族の楽園としました。


清占領時代 1683-1895

東興洋行徳記洋行明の鄭成功の承天府を台湾府と改め、四草砲台、安平小砲台を建て、イギリス商人が、安平に徳記、和記洋行を建てました。億載金城の砲台が完成し、赤嵌楼の清様式の建築が建てられ、台湾府は台南府と改められました。海は陸へと変遷し、昔は波がきらめいていた台江海岸は、大風雨が発生し、大量の河の砂が台江に流れ込んだため、千里の海は陸地になっていきました。何度かの修復を経ても、救うことはできず、優位性は失われていきました。


日本統治時代 1895~1945

台南庁舍(台南市役所)日本軍が台南を占拠し、台南駅が落成し、洋行は完全に安平から撤退しました。地方裁判所が建てられ始め、台南庁舍(台南市役所)が落成しました。台南は台南市と改制されました。台南新運河が開通し、台南駅の改築が竣工しました。日本人は、思想を取り締まっただけでなく、台南の街の様相にも様々な工夫を凝らしました。古都台南は、日本人の手中で、次第に現代的な都市の雛形ができあがりました。


戦後1945年以降

台南市を省直轄市と定めました。全市は 7 個の行政区に分けられ、日本式の町名は廃止され、今の通り名に改められました。孔廟では修復が行われ、孔廟文化パークが計画されました。
300 年以上累積された伝統文化の髄が、台南を取って代わることのできない文化古都にしました。台南は、歴史文化の余韻に照らされ、再びよろよろと歩みを始め、各区の復原の作業を展開しました。